帰ってきた
待ちに待った柚香光さんの大劇場トップお披露目公演初日から1週
毎日初日の中継録画をひたすら見つつ余韻が残る中でこのブログを
長いようでいてあっという間、というのは語弊があるけどもう3月
その間のスケジュール帳を確認しても中止になった公演を二重線で
まずは忘備録的に宝塚の2月末から宝塚大劇場初日再開までの発表
※劇団のニュースリンクが切れていたので、
2/27 2/29~3/8までの全公演中止を発表
3/11 雪組12~19日まで再中止
3/18 公演再開を22日に延期
3/21 花組初日を3/27に変更
3/22 雪組千秋楽1日だけ再開
3/25 3月末まで公演中止
3/30 4/12まで中止期間を延長
4/7 宝塚歌劇全公演当面の間中止
4/9 中止期間を6月末まで延長、
6/15 花組大劇場初日が7/17に決まる。
7/17 花組大劇場公演初日
特に3月下旬の発表が怒涛すぎてまとめているだけで当時のことを思い出して胃が痛くなりました。
朝夕夜と劇団のニュースページをひたすら更新して一喜一憂し、1
公式に発表されてるだけで花組の初日が3/13→3/22→3/
3/25の発表があった時点でこれ当分上演出来ないなーというのは分
何としても大劇場、
それからしばらく配信やスカステとかも観る気になれなくて、7月
とりあえずホテルだけはと思いすぐ押さえました。*1
発表時点で初日まで約1ヶ月、
実際に公演出来るかは当日幕が上がるまで分からない、
館内は事前の動画で見た通りガイドラインに合わせて感染予防対策
特にモニターに顔を合わせて瞬時に体温を測る機械は空港で見たも
このコロナで選挙同様エンタメも3ばん(看板・地盤・鞄)があると安
何より持ち劇場、
そして劇場ロビーに入ってまた別の方向で感動したんですが、
こんな状況の中しかも平日昼間の公演に有給取って来る人なんてガチ勢中
オケピの音合わせすらなく、1席飛ばしの千鳥配席もあってずっと
トップの挨拶より先に組長さんのご挨拶で始まった。
『4か月にわたり公演を中止して参りました。その間たくさんの温かいご声援を頂いたこと、心から感謝申し上げます。』
どうしてもバッシングが目立つ中で、
もうその挨拶から涙腺にじんわりきてたけど続く花組トップとしての
『皆様にお会い出来る日を心待ちにしておりました。』
という言葉。
その場で吹き込んでいるような高揚したような優しい声色は本人の
そこからもう駄目で、泣くだろうな〜
無事にお披露目公演の幕が開いた安心感、
本当にまた宝塚が観れるんだという喜び、
今まで自粛を強いられていた舞台のこと、
日々の生活の不安に至るまで今までずっと堪えていた感情がぶわっ
自分でもなんで泣いてるのか分からないくらい涙が止まらなかった
私は普段感情の波がほぼ無いのでこんなに感情を全面に出して泣け
プロローグでせり上がりでピンスポを浴び、贔屓が拍手に包まれる。テーマソングに合わせて送られる手拍子。
その光景をきっと私はずっと忘れないと思う。
2017年初演を観ている身としては散々見てきた公演であり、自分の中では2017年で綺麗に終わったものだと思っていたので再演には正直すごく複雑だった。
短いトップ生活の作品の1本を再演で消化してしまうのか……という思いが強くて。
でも幕が空いたらそんなの吹っ飛ぶ位、作品の力と同じ役だからこそ柚香さんの少尉に惹かれてしまい、今ではこの作品をお披露目公演として上演できることが出来て本当に良かったと思います。
私ははいからさんが通るの中で「風の誓い」という曲が初演から大好きなので
作品自体の感想はまた次の機会に書くとして、フィナーレの黒燕尾はずーっと鳥肌、
柚香さんが花組のトップスターになったことは散々、もう嫌というほど分かっていたけれど、私はその時に本当にトップなんだと視覚的に理解できました。
プレお披露目であるDANCE OLYMPIAを見ていたけれどやっぱり大劇場の大階段の0番はもうどの劇場も比でないほどトップスターが映える。
挨拶も、作中もフィナーレも大羽根で登場もうっすらと泣くだろうなーというポイントは自分でも分かっていたしその通りだったんですが、まさかパレードに泣かされるとは思ってなかった。
あのテーマソングのアレンジイントロがかかった瞬間、挨拶の時のような思いがせりあがってきてここでも嗚咽。
いつも通りではない生活の中で、
何より音くりすちゃんのエトワールがとんでもなかった。本当に好き。めちゃ可愛い。
最期終演後の挨拶の順番をフライングするというほのぼのエピソード?でふわふわしてまうのはなんか流石だな~らしいなーと申し訳ないけど思ってしまったよ。
新公時代から校長先生か!!
フィナーレの人数を制限したとはいえ、外部の舞台や刀ステ観てると舞台上は密だなぁ、
前に言っているように専属の劇団員、
たぶん外の人と接触しないよう言われてるだろうし......と
6月上旬から固めたガイドラインには、各組組長をはじめ、自宅で自主稽古を続けた生徒から自発的に意見が出たという。「家族、生徒同士でも2名以上で食事をしない-などは、生徒からの申し出もあった」などと明かした。
稽古場やスカステの番組を見ても対策をされているようで、あくまで舞台上の必要な演出については例外としているようです。
これは本当に本当にファンのエゴですが、トップお披露目という1度しかないあ
...
実際に自分が舞台を観れたこと以上に、
『宝塚に歌劇が帰ってきた』
という花組初日翌日の日刊スポーツ(関西版)の一面コピーは本当
初日の前、阪急電車の窓から大劇場が見えた時、
言っておきますが私は東日本出身、ムラに来るのも年数回くらい、
それでも帰ってきたって思ってしまった。
お帰り宝塚、そしてただいま宝塚。
私は8月のチケットも持ってはいますが、現在の状況から次の公演は観れないかもしれないという覚悟で初日から1回1回観劇に挑んでいました。
終演後の挨拶でも千秋楽とは言わず、1週間後、
今はただ花組公演が無事千秋楽まで上演出来ますよう、
その覚悟を無駄にしないように、私は次の観劇に備え自粛と予防を徹底します。
行ってみたいな静かの海のパライソに。
ミュージカル刀剣乱舞 静かの海のパライソ 思いがけず早い千秋楽になってしまったけど東京公演を観劇してのあくまで個人の感想を自分の忘備録として残しておきます。
※ネタバレ有り、しかも断片的で観てないとあまり理解できないのでなので観てない人は見ない方がいいです......
前提として6振りの中では演じている俳優も含めて鶴丸推しなのですごーく偏ってるんだけど、
初日終わってみてまず思ったのが、よくこの座組でこれやろうと思ったな!!!!ってことです。
あと全体的に1部のアンサンブルの役割が殺陣やダンスより演技やコーラスの比重が重くなって、今までより音楽と殺陣と芝居の境界をあまり感じずミュージカルとしての流れがとてもスムーズに感じた。
パンフレットの茅野さんの話にもあったけど、刀ミュ自体葵咲本紀で1つの区切りを迎えて、初心に立ち返ってトライアルのように一から積み上げていく、そのスタートをあえてこの若い座組に任せるって。。。
その座長を任されたのが三日月と対で描かれる鶴丸、岡宮君なんだけど、葵咲本紀、歌合せを経て元々すごく器用だと思っていたけど、相変わらず安定してる。
これはずっと思ってるんだけど岡宮君メンタルが強い。役の比重や周囲の期待によるプレッシャーもあると思うのにそれを気負った様子がない。
もちろん内々で何を考えてるかはわからないけど、それを外に出してこないのがマジで芸能人向きのメンタルしてると思います。
全体を通して茅野さんに「正解をすぐに求めようとしなくていい。」と言われたようにまだまだ変化していく素養は感じられたので、今後の公演を経ての進化がすごく楽しみ。
全体の大まかなあらすじとして、パライソや編成から予想されていたように今回は島原の乱の時代が舞台となり、天草四郎が時間遡行軍に殺されてしまったので、鶴丸(と日向君、浦島君)が天草四郎に成り代わって山田江模索(島原の乱唯一の生き残り)に協力して歴史を正史に修正していく刀ミュでいうみほとせ方式を取っている。
島原の乱を知っているともう鶴丸が自分が天草四郎で歴史を修正すると言った時点で結末見えてくるやつ。
刀剣男士が来たときには1万人くらいしか一揆軍がいないので3人が四郎になって各地で正史通り3万7千人の一揆軍を集めるんだけど、その3万7千人皆殺しにする集めているわけなのでその時点でなかなか辛い。
その一揆軍を集めるための合言葉として「パライソ」が使われてるけど、今公演ではパライソが本当にその本来の意味であるキリシタンの意味する天国の意味から離れて概念化してるんだよね。
作中でも言われているように島原の乱の一揆軍はけっしてキリシタンだけの一揆ではなく、百姓の不満であったり豊臣の旗印をもとに立ち上がったり、鶴丸いわく黒と白にはっきりと分けることは出来ない、戦ってそういう事だと、分かってはいるけれど白黒分かれない脚本を書くって結構骨のいることだったり、舞台としてまとめるのが大変なので御笠ノさんはそういうところ上手いし、ちゃんと2.5次元舞台を舞台として向き合ってるんだなと感じられる。
単一して正義と悪を書かない、という隠れた歴史の寄り添う立場であること、弱者や敗者の物語を書くこと、それが今語るべき物語とはっきりとパンフレットで語られているので、御笠ノさん、茅野さんが刀ミュにいる限りは今後このスタンスを貫いていってくれるんでしょう。
その中でも鶴丸の歴史への寄り添い方が一方的に肩を持つような寄り添いになっていないところがまた良いなと思う。
歴史的に皆殺しにされた一揆軍が被害者、というのはもう疑いようがないんだけど、農民が税を払えない時には蓑を巻いて蓑踊りをさせるんだって、残酷だー!と一揆軍がいかに不遇か、可哀そうか訴える浦島君に対して「見たことはあるのかい?」って聞いたりするのはそのあとで語られる歴史の真実・事実という話にもつながっていくし、
一揆に参加しないという理由で殺された人たち、異教徒だと理由で寺を焼かれた描写含め歴史に記されなかった奥の奥の数字でしか見れない人も救いあげる気概を感じました。
そして今回は特に刀剣男士は人じゃないんだな、思わせてくれるセリフの数々がグサグサと刺さってくるんだよ。。
特に四郎の死体を運び出そうとする右衛門作に対して「それはただのものだ」という鶴丸、劇中曲でインフェルノ(地獄)とパライソ(天国)の境目、正義と悪の境界線を教えてください、という歌詞があるんだけど刀剣男士的に刀剣男士はモノ、死体もモノ、であるならそれこそヒト、とモノの境界線ってどうなってるんだ?
あと鶴丸がすべてが終わった後に言う「俺たちは流した血に学ぶしかないんだ」ってメタメタ刀っぽい考え方じゃないです?(まぁ刀なんだけど)
あと地味にゾクっときたのが、今回の編成の6振りの中では刀としても若く人間にとても肩入れしている感じの浦島君がパライソが天国のことだと知った後にパライソを信じている人を「気の毒な人たち」って言い放つことだよなー!
回を重ねるごとにあそこがざらっと心に引っかかるようになってきて怖さすら感じました。
あと今回の鶴丸は死後にパライソがあるなんてちっとも思ってなさそうなところが特に好きです。。。
タイトルの「静かの海」というのはまあ予想されていた通り月にある静かの海にかかっていたんだけど、鶴丸の話す月にあるという「静かの海」には波も風もなく足跡も残る。
大海の波が正史なら語られない、残されなかった歴史は砂浜についた足跡のようなもので、波に流され消えてしまうという比喩もあると思うんだけど、そもそも波が起こる要因の1つに月の引力であることにもかかっているんだろうか。
「真実なんてどーだっていい」っていう鶴丸もね、大事なのは事実、事実とは正史だと思うんだけど、鶴丸という役を理解し落とし込むのはすごくむずかしい。
物語における演技って表情、言葉、心のうちが必ずしも一致しなくてよいものなんだけど、鶴丸は特にその3つが直結していないと言うか、噛みあっていない役なので受け取り方によって全然違う解釈になると思うし、演じるのもかなり骨のいる作業なんじゃないかと思います。
久々ストレートに通って楽しい!!と思える舞台でチケット頑張ったかいがあったなぁ。。。と思ったんだけどこんな状況だから再開を待つしかないのがもどかしい。
今回東京公演を経て思ったことを書いてるけど、きっとすべてが終わった頃にはまた違うことを思うんでしょう。
特に舞台はナマモノと言われるようにその時、1公演1公演違うし舞台の正解はそれぞれの舞台上にしかないと思っているので、自分の中で初日、中日、千秋楽で解釈が違ってくるなんてザラにあるし、人によって解釈が違うのは当たり前なんだな。
でも今回の散見されるパライソを地獄とか救いがない、絶望の物語と言うのは違う気がしていて.....
確かにどうしても結末を知っていると重い話ではあるんだけど、とても救いと望みのある話だと思います。
だからこそ私は今回の舞台も刀ミュも好きなんだと思わせてくれる。