踊るあほうのブログ

同じ阿呆なら踊らにゃ損

行ってみたいな静かの海のパライソに。

ミュージカル刀剣乱舞 静かの海のパライソ 思いがけず早い千秋楽になってしまったけど東京公演を観劇してのあくまで個人の感想を自分の忘備録として残しておきます。

 

※ネタバレ有り、しかも断片的で観てないとあまり理解できないのでなので観てない人は見ない方がいいです......

 

 

前提として6振りの中では演じている俳優も含めて鶴丸推しなのですごーく偏ってるんだけど、

初日終わってみてまず思ったのが、よくこの座組でこれやろうと思ったな!!!!ってことです。

あと全体的に1部のアンサンブルの役割が殺陣やダンスより演技やコーラスの比重が重くなって、今までより音楽と殺陣と芝居の境界をあまり感じずミュージカルとしての流れがとてもスムーズに感じた。

 

パンフレットの茅野さんの話にもあったけど、刀ミュ自体葵咲本紀で1つの区切りを迎えて、初心に立ち返ってトライアルのように一から積み上げていく、そのスタートをあえてこの若い座組に任せるって。。。

その座長を任されたのが三日月と対で描かれる鶴丸、岡宮君なんだけど、葵咲本紀、歌合せを経て元々すごく器用だと思っていたけど、相変わらず安定してる。

これはずっと思ってるんだけど岡宮君メンタルが強い。役の比重や周囲の期待によるプレッシャーもあると思うのにそれを気負った様子がない。

もちろん内々で何を考えてるかはわからないけど、それを外に出してこないのがマジで芸能人向きのメンタルしてると思います。

全体を通して茅野さんに「正解をすぐに求めようとしなくていい。」と言われたようにまだまだ変化していく素養は感じられたので、今後の公演を経ての進化がすごく楽しみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全体の大まかなあらすじとして、パライソや編成から予想されていたように今回は島原の乱の時代が舞台となり、天草四郎が時間遡行軍に殺されてしまったので、鶴丸(と日向君、浦島君)が天草四郎に成り代わって山田江模索(島原の乱唯一の生き残り)に協力して歴史を正史に修正していく刀ミュでいうみほとせ方式を取っている。

島原の乱を知っているともう鶴丸が自分が天草四郎で歴史を修正すると言った時点で結末見えてくるやつ。

 

刀剣男士が来たときには1万人くらいしか一揆軍がいないので3人が四郎になって各地で正史通り3万7千人の一揆軍を集めるんだけど、その3万7千人皆殺しにする集めているわけなのでその時点でなかなか辛い。

その一揆軍を集めるための合言葉として「パライソ」が使われてるけど、今公演ではパライソが本当にその本来の意味であるキリシタンの意味する天国の意味から離れて概念化してるんだよね。

作中でも言われているように島原の乱一揆軍はけっしてキリシタンだけの一揆ではなく、百姓の不満であったり豊臣の旗印をもとに立ち上がったり、鶴丸いわく黒と白にはっきりと分けることは出来ない、戦ってそういう事だと、分かってはいるけれど白黒分かれない脚本を書くって結構骨のいることだったり、舞台としてまとめるのが大変なので御笠ノさんはそういうところ上手いし、ちゃんと2.5次元舞台を舞台として向き合ってるんだなと感じられる。

単一して正義と悪を書かない、という隠れた歴史の寄り添う立場であること、弱者や敗者の物語を書くこと、それが今語るべき物語とはっきりとパンフレットで語られているので、御笠ノさん、茅野さんが刀ミュにいる限りは今後このスタンスを貫いていってくれるんでしょう。

 

その中でも鶴丸の歴史への寄り添い方が一方的に肩を持つような寄り添いになっていないところがまた良いなと思う。

歴史的に皆殺しにされた一揆軍が被害者、というのはもう疑いようがないんだけど、農民が税を払えない時には蓑を巻いて蓑踊りをさせるんだって、残酷だー!と一揆軍がいかに不遇か、可哀そうか訴える浦島君に対して「見たことはあるのかい?」って聞いたりするのはそのあとで語られる歴史の真実・事実という話にもつながっていくし、

一揆に参加しないという理由で殺された人たち、異教徒だと理由で寺を焼かれた描写含め歴史に記されなかった奥の奥の数字でしか見れない人も救いあげる気概を感じました。

 

そして今回は特に刀剣男士は人じゃないんだな、思わせてくれるセリフの数々がグサグサと刺さってくるんだよ。。

特に四郎の死体を運び出そうとする右衛門作に対して「それはただのものだ」という鶴丸、劇中曲でインフェルノ(地獄)とパライソ(天国)の境目、正義と悪の境界線を教えてください、という歌詞があるんだけど刀剣男士的に刀剣男士はモノ、死体もモノ、であるならそれこそヒト、とモノの境界線ってどうなってるんだ?

 

あと鶴丸がすべてが終わった後に言う「俺たちは流した血に学ぶしかないんだ」ってメタメタ刀っぽい考え方じゃないです?(まぁ刀なんだけど)

 

あと地味にゾクっときたのが、今回の編成の6振りの中では刀としても若く人間にとても肩入れしている感じの浦島君がパライソが天国のことだと知った後にパライソを信じている人を「気の毒な人たち」って言い放つことだよなー!

回を重ねるごとにあそこがざらっと心に引っかかるようになってきて怖さすら感じました。

 

あと今回の鶴丸は死後にパライソがあるなんてちっとも思ってなさそうなところが特に好きです。。。

 

 

タイトルの「静かの海」というのはまあ予想されていた通り月にある静かの海にかかっていたんだけど、鶴丸の話す月にあるという「静かの海」には波も風もなく足跡も残る。

大海の波が正史なら語られない、残されなかった歴史は砂浜についた足跡のようなもので、波に流され消えてしまうという比喩もあると思うんだけど、そもそも波が起こる要因の1つに月の引力であることにもかかっているんだろうか。

 

「真実なんてどーだっていい」っていう鶴丸もね、大事なのは事実、事実とは正史だと思うんだけど、鶴丸という役を理解し落とし込むのはすごくむずかしい。

物語における演技って表情、言葉、心のうちが必ずしも一致しなくてよいものなんだけど、鶴丸は特にその3つが直結していないと言うか、噛みあっていない役なので受け取り方によって全然違う解釈になると思うし、演じるのもかなり骨のいる作業なんじゃないかと思います。

 

 久々ストレートに通って楽しい!!と思える舞台でチケット頑張ったかいがあったなぁ。。。と思ったんだけどこんな状況だから再開を待つしかないのがもどかしい。

 

今回東京公演を経て思ったことを書いてるけど、きっとすべてが終わった頃にはまた違うことを思うんでしょう。

特に舞台はナマモノと言われるようにその時、1公演1公演違うし舞台の正解はそれぞれの舞台上にしかないと思っているので、自分の中で初日、中日、千秋楽で解釈が違ってくるなんてザラにあるし、人によって解釈が違うのは当たり前なんだな。

 

でも今回の散見されるパライソを地獄とか救いがない、絶望の物語と言うのは違う気がしていて.....

確かにどうしても結末を知っていると重い話ではあるんだけど、とても救いと望みのある話だと思います。

だからこそ私は今回の舞台も刀ミュも好きなんだと思わせてくれる。